ことのは採集

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波多野精一『宗教哲学』その3

こんにちは、真音とろっぽです。

昨日今日と授業があったのですが、心なしかいつもより学生が少ないような……。ゴールデンウィークということで、授業を「自主休講」して旅行や帰省をしているのかもしれません。でも、あんまり休んでると単位とれないぞ(ふふふ)。

私は昨日紹介した「マニャーナの法則」で生活リズムを整えつつあって、今日は波多野精一『宗教哲学』と『西洋哲学史I』を読みました。その中から、またもや波多野精一の話をします。

波多野精一『宗教哲学序論・宗教哲学』岩波文庫、岩波書店、2012年

宗教哲学序論・宗教哲学 (岩波文庫)

宗教哲学序論・宗教哲学 (岩波文庫)

 

以前からさらに読み進めた箇所で、波多野はこんなことを言っています。

宗教の正しき理解への第一歩は宗教そのものの立場に身を置き、それの体験が語るがまま教えるがままに、偏見に囚われぬ耳を貸すという態度に存せねばならぬ。宗教そのものの自己理解––––これ以外にそれの正しき理解はあり得ない。〔221頁〕

「それを言っちゃあおしまいよ!」と言いたくなるような文です。宗教に入らなければ宗教のことは分からない……と言っているようにも聞こえます。これは、次のような問題に対して書かれているのです。

今宗教的体験そのものの立場を取らずして冷やかなる傍観者の態度に甘んずるならば、宗教と文化との間に限界線を引く事はきわめて困難となるであろう。〔221頁〕

宗教も、芸術や道徳も、精神的な世界に属しているので、傍観者から見れば同一平面上のものにすぎません。結局、どれも文化だということになってしまいます。だから、次に述べるような啓示=体験を踏まえなければ、宗教の独自性は成り立たないのです。

 吾々が生きた人格として絶対的実在に出会うところに宗教は成立つ。この出会いに際しての出来事は、これをかなたよりいえば啓示であるが、こなたよりいえば体験である。〔213頁〕

実際、超越的なものをカッコに入れて、人間的な文化現象として宗教を捉える研究は数多あります。でも、それで宗教の核心にせまることができるのか?という批判的なまなざしを、波多野は宗教学に投げかけています。

少なくとも、絶対的実在をめぐる宗教的問いを「我がこと」としなければ、宗教について真の理解は望めないのかもしれません。