ことのは採集

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上田閑照・柳川啓一編『宗教学のすすめ』

こんにちは、真音とろっぽです。

大学院を卒業した今でも、私は出身研究室に出没しては読書会に参加したりゼミに顔を出したりしています(と言っても、現役学生の邪魔にならないようにしようと思ってます)。そんな中、ゼミで取り上げる著作に次のものがありました。

上田閑照・柳川啓一編『宗教学のすすめ』筑摩書房、1985年

 

この本は絶版なのですが、経験科学的宗教学宗教哲学の両方の立場の人が書いた入門的論集ということで、取り上げられます。明日は第1論文から。

田丸徳善氏の「宗教の科学」という論文で、宗教学序論といった内容です。そこに、こんな記述がありました。

つまり、宗教というなにか特別の領域があるわけではなく、人間生活の内容のすべてが、ある性質をそなえたとき、それが宗教的になるのである。その性質とは、一言でいえば、絶対的・究極的ということにほかならない。ある事柄が、当事者である人間にとって絶対的・究極的な意味をもつとき、そしてその限りにおいてのみ、それは宗教的とみなされるのである。〔8頁〕

宗教とは究極的な意味をもつもの、というわけですね。

これは明らかに(もしかしたら岸本英夫氏を介して)プロテスタント神学者のパウル・ティリッヒの影響を受けている定義です。彼は、信仰を次のように定義しました。

信仰は、われわれが究極的に関わっている状態である。

〔ティリッヒ著、谷口美智雄訳『信仰の本質と動態』新教新書、新教出版社、1961年、2000年復刊、11頁〕

ティリッヒは「究極的関わり」(あるいは究極的関心)とは何なのか、その後色々と説明しています。 

 

私も自分の授業の中で、宗教は厳密には定義不可能だと述べた上で、作業仮説として「宗教は究極的関わりである」と定義します。

ただ、この定義の場合、これまで宗教に分類されてきたものだけでなく、共産主義とかナショナリズム、果ては仕事や恋愛なども宗教に含まれる危険があります。逆に、宗教から締め出されるものも出てきます。

まあ、だから作業仮説にすぎないのですが……。