ことのは採集

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波多野精一『宗教哲学』その2

こんにちは、真音とろっぽです。

今日は出身研究室の新入生歓迎会でした。私は新入生でもなければ在学生でもないのですが、OBという扱いで参加させてもらいました。新しく研究室に入った人に加え、馴染みの後輩にたくさん会えたので楽しかったです。

宗教哲学を研究する後輩たちに刺激され、私も実証的宗教学だけでなく宗教哲学をちゃんと研究しないとなあ、と思わされました。というわけで、今日は宗教哲学の話を少しします。

以前も取り上げた次の本から。

波多野精一『宗教哲学序論・宗教哲学』岩波文庫、岩波書店、2012年 

宗教哲学序論・宗教哲学 (岩波文庫)

宗教哲学序論・宗教哲学 (岩波文庫)

 

少し読み進めたところから再び紹介します。

すべての宗教は形而上学を萌芽として自己のうちに含蓄する。また逆に世界の意識より出発する哲学も、それが真に形而上学であり得んためには、宗教と結び附き、宗教的内容の表現乃至展開としての意義を発揮せねばならぬ。〔……〕宗教はすべての形而上学の魂であり生命の泉である。〔192頁〕

昔々、アリストテレスが第一哲学として展開したものが、後に「形而上学」と名づけられ、哲学の中でも究極の分野を指すようになりました。波多野は「これを絶対的実在または真の実在に関する哲学的論議の意に解する」(182頁)と述べています。

この哲学の精髄とも言えるものが、実は宗教と結びつかなければ成り立たない、と言うんですね。

実際、アリストテレスの企てた形而上学は一種の神学とされましたし、中世哲学は形而上学の最盛期ですが、当然キリスト教の基礎の上に築かれています。波多野はさらにスピノザやヘーゲルなどを挙げ、宗教と形而上学の密接な関係を指摘しています。

世界の究極的なあり様を探る形而上学は、その究極的なあり様を(成功・失敗は問わずとも)開示している宗教に行き着かずにいられないのです。