ことのは採集

++たのしい知的生活を送る++

阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』

こんにちは、真音とろっぽです。

とうとう今年度の授業が始まりました! 今日の授業は1年生がほとんど(授業中に何年生か訊いて手を挙げてもらいました)。大学で受ける最初の授業。知的に面白いものにできるよう、がんばります。

第1回の授業で用いることにしているのが、次の本です。

阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書、筑摩書房、1996年

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

 

 

この本はとりわけ第1章が興味深いのです。「日本人は無宗教だ」という認識が半ば一般常識のようにまかり通っているけれど、それってどういうことなのか? 本当に無宗教なのか? というところに切り込んでいきます。

著者いわく、キリスト教や仏教のように教祖・教典・教団のそろった創唱宗教ではなく、日本人はいつからともなく存在した自然宗教を信じているのだ。その自然宗教(ご先祖様を大切にする心など)を、とりたてて「宗教」と見なしていないだけなのだ。

 

では、なぜ日本人の多くは創唱宗教を自覚的・積極的に信仰していないのか? それは、創唱宗教を信じる前提に、人生の不条理に目を向けるということが含まれているからだ、と阿満氏は言います。

 だから、「創唱宗教」への恐怖心とは、厳密にいえば、それらの宗教の教えが怖いのではなく、その前提である人生を疑ったり否定せざるをえない営みへのおそれといえるのではないか。あるいは、おぼろげに見えている人生の深淵を、あらためて正面からのぞき込まねばならなくなることへのおそれといいかえてもよい。
 ともかく、喜びも苦しみも悲しみもほどほどに生きているのだから、それ以上に人生をかきまわさないでほしいし、そうしたおそれがあるものには近づきたくない、それが「創唱宗教」への警戒心ともなり、ときに「無宗教」を標榜させているのであろう〔28頁〕。

 

もちろん、仏教でもキリスト教でも、軽いタッチでその教えを受け入れ、生活に生かしていくことは可能でしょう。ただ、創唱宗教に本気で取り組むとなると、自分の人生の周辺ではなく中心に信仰が来なくてはならなくなる、その重さはあるでしょうね。